起源
民国50年(1961年)礼徳スーツの創業者である林育松氏は故郷の金瓜石から一人で台北に来て、裁縫見習いとして働き始めました。当時はちょうどオーダースーツ産業の黄金時代であり、主な客層はアメリカから台湾に観光に来た米軍で、平均毎日2本の飛行機の米軍を持てなし、ホテルにチェックインしてすぐ採寸、カット、試着に取り掛かりました。最高記録は一日に40名のお客様を採寸した事さえあります。林氏のしっかりした腕前もこの時、大量の練習を経て鍛えられました。数万時間の労働およびスーツに対する情熱は、後の礼徳スーツに良い基礎を築きました
スターライト
1960年代半ばから、オーダースーツの客層は欧米の観光客とビジネスパーソンに徐々に移ることになりました。創業者のJamesも民国67年(1978年)インペリアルホテルで最初の礼徳スーツをオープンし、シェラトンホテルにも出店して、全盛期には四つもの店を持っており、たくさんの海外のお客さんがその名声に慕ってご来店なさいました。ミレニアムを迎える時、礼徳スーツはた台北の中正区林森北路1号に転移し、高級オーダースーツの制作に専念し、優れた評判によって多くの国内外のトップの実業家、責任者、弁護士、政治家、外交官が礼徳スーツの愛用者になりました。
産業の飛躍
民国54年(1965年)台米が<台湾米軍地位協定>を結び、同年にベトナム戦争が勃発しました。
大勢の米軍が来台し、台湾の経済、社会、文化などに大きな影響を与えました。そのなかに洋服産業が一番恵まれていた産業だと言えます。
堅実な発展
民国60年(1971年)から台湾は輸入超過から輸出超過に変わり、ホテルにある洋服屋の客層は欧米や日本の貿易商になりました。外国人にとって台湾の洋服屋は繊細で、高品質の代名詞でした。効率も良く、最短で一日以内に納品することができました。
根を下ろす
民国79年(1990年)後半、台湾の産業が国外に移転し、台湾に来る貿易商が急激に減り、客層は観光客に変わりました。洋服産業の繁盛ぶりはもう見えなくなりましたが、礼徳スーツは、スーツに対して熱い感情を持つ職人たちによって支えられ、最高品質をもってお客様にサービスを提供し続けています。
伝説になる
50年来、林育松氏は鋭いカットと優雅なラインを組み合わせて、一挙手一投足にオーダースーツに対するこだわりと自信が伺われます。日本のNHKが取材した時にさえ林育松氏を「オーダースーツの最後の侍」というあだ名を付けるくらい、台湾のオーダースーツの工芸を守ってきたことへの敬意の表れと言えましょう。本日でも、林育松氏は自ら接客し、多方面にわたる意思疎通、布地の選択、細部の調整、仮縫いと試着を通じて最高級の品質を提供しています。50年の歴史と50年の変わらない高水準で、礼徳スーツはこれからも台湾洋服の品質を守り続け、伝統的でハイレベルなスーツ工芸を伝承してまいります。
革新的な洋服のアート
「子供の頃からおじさん、おばさんと呼んてきた職人たちとは、もうお互いにとても親しい仲で、私をまるで実娘のように扱ってくれます。また私はこの店で育ったこともあって、幼い頃から彼らとスーツについて交流を持ち始めました。完全な手作りのオーダースーツの影響で、服に対する期待は見た目の美しさだけではなく、さらなる追求を求めていきました。街中で会社員や大物がスーツを着ている姿をよく見かけますが、そのうち5割が既製品の大きすぎるスーツを着ていて、4割が韓国風の細めのスーツを着ているのを見ると、不体裁だなと不意に思いました。店頭でも外国人のお客様から『台湾の男性の着ているスーツがだいたい古臭くて似合わないのはなぜですか?』と聞かれたこともあり、オーダースーツはかけがえのないものだとさらに肌で感じてしまいます。それでより多くの台湾人にオーダースーツの価値を理解していただきたい訳です。 」
Heidiは、お客様の全体的な雰囲気や好みのスタイルに合わせて色や布地を選び、お客様の個性を活かすために経験と専門的なスキルを駆使します。お客様のニーズを理解して初めて、一人ひとりに一番似合うスーツができると考えており、皆様が満足する完成品を仕上げられます。
近年、女性の社会進出が目立つようになり、女子のフォーマルスーツに対する需要が増えている一方、女性向けのオーダースーツに力を入れているブランドは市場にはほとんどありません。二代目として就任後、Heidiは若者のスーツの選択肢を広げ、女性がレディメイドしか選べないという苦しい現状を打開し、スーツを日常生活の一部として、さらにはファッションスタイルとして定着することを目指しています。